大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和46年(う)2365号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

(控訴の趣意)

弁護人井出甲子太郎提出の控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。

(当裁判所の判断)

控訴趣意第一点事実誤認の主張について。

所論は、原判決は、被告人が、紀平悌子から原判示の日時、場所で世田谷区三軒茶屋までの運送を頼まれ、同女を乗車させて走行中、「世田谷通りはこんでいるから裏通りを廻り道して行きたい。」旨の申し入れをしたところ、同女から拒否されたので、被告人は、同女の意思に反し他車に乗り換えることを要求し、法定の除外事由がないのに同女を降車させて運送申し込みに対する引受けを拒絶したものである、との事実を認定しているけれども、被告人は、裏通りを通らないのなら降りてもらいたいと言って乗客の意思に反して運送継続を拒否したものではなく、紀平悌子が料金のことを心配しているのではないかと考え、「料金の安い都内のタクシーに乗り換えてもらっても結構です。」と言ったところ、同女は、「都内のタクシーが拾えるなら乗り換えてもよい。」と言うので、ここに両者の合意が成立し、同女が下車したものであるから、被告人の所為は、乗車拒否には当らないと原判決の事実誤認を主張する。

そこで、まず検討すると、被告人は原判示のとおり、紀平悌子を三軒茶屋までの約束で乗車させたが、その途中、「世田谷通りはこんでいるから裏通りを廻り道して行ってもいいですか。」と申し入れたところ、同女が、「まっすぐ行ってください。」、と言ってこれに応じなかったことに端を発して、両者間にたがいに言葉のやりとりがあった末、結局、原判示地先において同女がそれまでの料金二三〇円を支払って下車したことが明らかである。

ところで、≪証拠省略≫によると、世田谷通りは時間により交通が輻輳し、裏通りを廻り道する方がかえって早いことがあり、しかも、そのための料金の増加も四〇円くらいに過ぎないことが認められるから、被告人がこれからさきの道の混雑を見越して、一応裏通りを廻り道することを申し出たとしても、そのこと自体をもってあながちただちに不当な申入れというわけにもいかない。もっとも、そのころ世田谷通りのそのあたりはまださして混雑はしていなかった。この点は、紀平悌子が原審公判廷でそのように言っているし、被告人自身も、原審公判廷で、「表通りは六〇キロ以上では順調に行かないのではないかと思う。四~五〇キロならある程度は順調に行かれたのではないかと思う。」と述べているのであるから、まちがいない、と思われる。そこで、紀平悌子は、被告人に「まっすぐ行ってください。」と言って廻り道をことわった。これも、また、まことにもっともなことである。しかし、なおよく同女の原審公判廷における供述を見ると、紀平は、約半年くらい前にも同じ行程を行くために被告人車に乗ったところ、やはり裏通を通ることの申出を受け、そのときはこれに応じて三軒茶屋まで行ってみたらいつもより倍近くの料金をとられたことを思い出していたので、そのこともあって今回は廻り道をことわった、というのである。そこで、そのとき紀平悌子が右の点についてどのようなことを被告人に言ったか、ということをまず考えておかなければならない。同女は、この点を原審公判廷で弁護人から質問され、「『まっすぐに行ってくれ。』と言ったときにそこまで言ったかどうかははっきりしませんが。」、と一応言葉をにごしているが、結局、「『前にも廻り道をしたことがありますね。』と申しました。」と答えているが、料金の点は言わなかったと思う、と述べている(ちなみに、当審に提出された紀平悌子名義の「乗車拒否に関する訴え」と題する警視庁交通部交通執行係長宛の書面には、過去における廻り道についての被告人との間のやりとりのことは何も書いてないが、同じく当審に提出された同女の司法警察員に対する供述調書には、「私がおろされるとき『あなた、この前も廻り道したでしょう。今日のことはあなたの名前も覚えてとどけますよ。』等といいましたら、だまってしまいました。」、との記載があって、三者の間に微妙なニュアンスの相違が認められる。)。これに対し、被告人は、原審公判廷では、「自分は以前紀平氏を乗せた記憶はありません。」、「紀平氏ははじめはまっすぐに行ってくれ、と言い、『前にあなたは裏通りを通って料金を倍近くとった人ですね。』と言うので、私が『そんなことはない。』と言うと、紀平氏はなおもしつこく言うし、その時紀平氏は、『小田急のタクシーは料金が高い。』とか『運転手の質もわるい。』などと言うので、自分も腹が立って、『そんなに料金のことを言うのなら、都内のタクシーの方が安いからここで乗り換えてくれ。』と述べているのである(もっとも、被告人は、この点につき、司法警察員に対しては、「お客さんは、『別に急ぐわけではないから、この道をまっすぐ行ってくださいよ。』と言ったように思います。その時であったか、そこまで来る途中であったかはっきりしたことはおぼえていませんが、そのお客さんは、『ここまで来るときも遠廻りした。』とか『料金が高くなる。』等ということをブツブツ云っておりましたので、多少感情的になってしまい、それで私は、三多摩の営業車で料金が都内のタクシーより高いということをそのお客さんが知らないんじゃないかと思ったので、『都内の車(タクシー)の方が料金が安いから都内の車に乗り換えてくれませんか。』と云いました、うんぬん。」と言っており、さらに、検察官に対しては、「お客さんは、『別に急ぐわけでもないから世田谷通りをまっすぐ行ってください。』と申しました。その他そのような話をしてから、お客さんは、何かとぶつぶつ言いましたので、私も多少感情的になり、『都内のタクシーの方が料金が安いから乗り換えてくださいと申し、うんぬん。』と述べていて、三者の供述の内容は一致しておらず、とくに検察官の供述調書にある「その他そのような話をして」との記載は、よくその意味がわからない。)。さて、このようにみてくると、紀平悌子が、以前にも今回と同じ行程をタクシーに乗って三軒茶屋へ行こうとしたが、その時は裏道をまわることを承諾したため相当高額の料金を支払わざるを得なかったことは事実であると同時に、その際の運転者がほかならぬ被告人である、と思いこんでいたこともまちがいないように思われる。とすると、同女の脳裡には被告人が水揚げの増額目当てにわざと裏道まわりすることを常習としている悪質運転者である、との印象が強くきざみつけられていた筈であるから、今回またもや裏道まわりをしようと言い出したことになるその当の被告人に対し、腹立たしさを覚えるとともに、その機会にある程度強くその点について被告人を追及したり、また、自己の不満の念を洩らしたのではないかとも思われるのであって、この点を念頭において考えてみると、被告人が前記のように原審公判廷でるる述べているところも、これを前記司法警察員および検察官に対する各供述調書と十分比較検討してみても(ちなみに、被告人が、司法警察員に対する取調べ―この取調べは紀平悌子の取調べより二日前の五月一一日になされたことになっているが―の際、すでに前記のとのり紀平が料金が高くなる等ということをブツブツ云っていた、と述べているのである。そして、その後紀平の取調べによって、同女が被告人に対し、たとえ被告人車からおろされるときということにはなっているが、ともかく以前のまわり道の件を持ち出して咎め立てしている事実が判明したわけであるが、その後に行なわれている検察官による被告人の取調べの際にも、この点を被告人にたしかめた形跡は見当たらない。)、なお、たやすくこれを排斥し難いように思われるのである。もち論、紀平悌子が被告人の述べているような趣旨のことばを洩らしたからといって、同女が真実過去においても被告人のためにめいわくを受けたことがあると思いこんでいた以上は、別段この点について同女を咎め立てするわけにはいかないであろう。ただ、実際被告人が、はたして紀平のいうように以前にも同女を乗せて裏道まわりの運転をし不当に高額の乗車料金を取得したことがあるのかどうかは、本件との関係において相当重要な意味をもつものと思われるのであるが、遺憾ながらこれを判定すべきなんらの資料(たとえば、紀平悌子のいう本件より約半年くらい前のころの被告人の乗務記録等)もないため、被告人がこれを否定する以上は、結局水かけ論の域を出ないことになる。そこで、今一度記録に眼を戻すと、紀平悌子は、原審法廷において、同女が被告人にまっすぐ行くようにいうと、「被告人は、なおも『裏通りを通らなければおりてほしい』旨申しまして、大蔵団地手前で車を停めて、『ここでおりてほしい。』といっておろされました。そのとき、私は、『この辺では空のタクシーが拾えないからそのまま行ってくださるように申しましたが、降ろされました。……ドアがあきましたので、私は降りました。五〇〇円札で払い釣銭をもらいましたが、そこでも釣銭がないと申しておこられました。被告人は車が拾えることをしきりに申しましたが、通るタクシーがみんな客が乗っていて、……ほかのタクシーに乗るまで三〇分くらいかかりました。」、「三軒茶屋で午後零時前に人と会う約束がありました。降ろされたのは午前一一時三〇分くらいだと思います。……ほかのタクシーで三軒茶屋についたのは午後零時三〇分から四〇分の間だったと思います。」、「被告人が手で合図して停めたタクシーに乗ったのではありません。被告人はすぐユーターンして行ってしまった筈ですから、私がほかのタクシーに乗ったのは見てないと思います。」、「私は乗車中、被告人に『車が拾えれば降りてもよい。』というようなことを申したおぼえはありません。」と述べている。ところが、一方、被告人は、原審公判廷で、前記の供述に続いて、「すると、紀平氏は『車さえ拾えれば乗り替えてもいい。』と言うので、自分としても空車の拾える所まで行ったのです。そして、『この辺なら拾えるからここで乗り替えてください。』と言ったら、『ここなら拾えるから乗り替える。』と言うので、そこで降ろしたのです。そして、料金は……小銭がなくてポケットの方方を探して出したので多少手間どりましたが、その時に一台か二台後から空車が来たので、自分が手を出したら自分の車の前に止まりました。……私は、紀平氏が私の止めた車に乗って行くのを見ていました。」、「紀平氏は降りる時私を訴えるというようなことを言っていましたが、私も悪いことをしていないので『訴えるなら訴えなさい。』と言いました。」と述べているのであるが、なお、司法警察員に対しては、被告人が紀平に釣銭を渡している間に都内の車が二台くらい通り過ぎたが、同女は、それを見て「あんたが釣銭を出すのがおそいから車が行ってしまった。」などとブツブツ言っていた、ということや、被告人がとめた車は、会社名はわからないがチエッカー車であり、被告人は、紀平がそれに乗ってから転回して狛江の方に帰った旨を供述している(ちなみに、被告人の検察官に対する供述調書には、被告人が車をとめたのかどうかの点についてはなんの記載もない。)

以上摘記の証拠関係を通覧すれば、一応、被告人が、紀平悌子の承諾も得ず、その意思に反して降車を強制したのではないかとの疑いが相当に強いことはまちがいない。ことに紀平悌子は、被告車からおりるときに被告人を訴えるとまで言っており、そして、現に、その翌々日の五月三日付で警視庁交通部交通執行係長宛の前記訴えの書面を書き送っていることからしても、被告人に対する同女の憤まんのほどが思いやられるのである。しかし、他面、紀平のこの憤まんの念が、被告人が過失においても不当な裏道まわりをしたという同女の記憶によってどの程度増嵩されていたかは必ずしも明らかでないばかりでなく、さきにも述べたとおり、この過去における被告人の裏道まわり運転の事実の有無がすこしも調査されておらず、結局水かけ論の域を出ない以上、突然紀平からこの件を持ち出されたときの被告人の心情の動きを正確に補捉し難いことになるのである。もし、万一、紀平の右記憶に思いちがいがあったとすれば、被告人としては思わぬ濡れ衣を着せられたことになるわけであるから相当興奮もするであろうし(現に、被告人は、原審公判廷で、この話しが出てから両者たがいに興奮状態になった、と言っている。)、そうなると、双方が思わぬことを口走ってしまったり、また、相手方のことばを曲解するようなことにもなりかねないと思われる。たとえば、紀平が、原審法廷で述べているように「この辺では空のタクシーが拾えないからそのまま行ってください。」とか、また、前記訴え書に記載してある「進行方向に車があればそれ(乗替えのこと)もがまんするが、無いではないか。」とかいうような意味のことを口にした場合に、これを聞いた被告人が、感情のいらだちも手伝って、それを「車さえ拾えれば乗り替えてもよい。」という趣旨に早合点することもまったく考えられないことではないし、それに相手の紀平悌子にしても、前述のように被告人を水揚げの増額目当てにわざと裏道まわりすることを常習としている悪質運転者であるとの印象を受けていたと思われるから、そのような者の車に長く乗っているよりも、むしろほかの車に乗り替えた方が気持がよいという感じが内心には動いていたのではないかということを一応推察する余地がないともいえないように思われるのである。そこで当裁判所は紀平悌子が被告人車からおりた後タクシーを拾うまで三〇分くらいもかかり、午後零時前に三軒茶屋で人と会う約束であったのに、そこへついたのは午後零時三〇分から四〇分の間であったということを手がかりとして、当審において、被告人に対し、紀平の右乗換え当時の状況をできるかぎり詳細に質問したわけであるが、なおそれよりさき、本件についてはいわば第三者の立場にある右当日三軒茶屋で紀平と会う約束をしていたというその相手方を証人として尋問し、その結果をも参酌して最後の結論を出すのが最も相当であると考え、事前準備の機会を設けて検察官および弁護人双方の意向を徴したところ双方の賛同を得たので、検察官にその手配方を依頼しておいたが、その後検察官の努力にもかかわらず、ついに紀平悌子から右相手方の住所、氏名を知らせられなかった(ただ、その者が老令の女性であることだけは明らかにされたということである。)ため、その証言を得ることができなかったことは、真実発見の建前の上からみてはなはだ遺憾である、というのほかはない。そのほか、紀平が乗り換えたというタクシーの所属会社名ないしその運転者の氏名などもまったく不明であって、これではせっかくの紀平悌子の証言を補強する資料を得る道がとざされてしまったことになる。

叙上の次第で、原審証人紀平悌子の供述その他原判決挙示の各証拠によって本件公訴事実を肯認できる可能性はもとより大きいが、それにしても、なお、本件にはさきに述べたような特別な事情がてんめんしているし、それに、たとえ間接的ではあるが、ともかく本件公訴事実を全面的に肯定するについては相当重要な関係をもっているものと思われる争点が、遺憾ながらなんらかの事情のためついに解明できなかった等の関係もあって、あるいは被告人が、興奮のあまり、紀平悌子の真意を誤解し、一応、乗換えのできる空車さえあれば同女自身もあえてその乗換を拒む意思はないものと速断していたのではないか、との合理的な疑いを払拭し去ることができないもののようにも思われる(被告人が、紀平から、同女の下車する際、「あなたを訴える。」とまで言われているのに、なお、「自分はわるいことをしていないから訴えるなら訴えなさい。」と言ってこれに応じた旨を原審公判廷で述べているのも、あるいは這般の消息を示しているのではないか、とも推測される。)したがって、原判決が被告人の犯意の点をもふくめて本件公訴事実を認容したのは事実を誤認したことになり、この誤認は、もとより判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、原判決は破棄を免かれない。

控訴趣意第二点について

所論は、仮りに、被告人が紀平悌子の意思に反して下車を求めたとしても、タクシー運転者は道路運送法一五条に定められた場合以外でも、同法二九条、自動車運送事業等運輸規則三七条、三三条、三四条等の趣旨により、本件のように走行中の車内で乗客から自己の記憶にない過去の出来事を取り上げて非難され、嫌味を言われ、そのため乗客、運転者ともに不快の感におそわれ安全運転を確保できなくなった場合には、運送の継続を拒否する正当な事由があるものというべきであるから、被告人に対し有罪を言渡した原判決は、法令の解釈適用を誤った違法があり、破棄を免かれない、と主張する。

しかしながら、道路運送法一五条によって運送を拒絶しうる場合でなくても、所論指摘の各法条の趣旨や、その他の正当事由により運送の引受を拒絶できる場合が考え得るとしても、所論のいうような事情があったからといって、それがただちに運転の継続を拒否しうる正当な事由になる、ということはできない。論旨は理由がない。

なお、原審は、第四回公判期日で、裁判官がかわったことを理由として公判手続の更新をしているけれども、本件記録を調べても、本件公判審理の裁判官に変更のあった事実は認めることができない。ただ、第三回公判期日までは公判をした裁判所が東京簡易裁判所であったのが、第四回からは渋谷簡易裁判所に変わったため更新手続をしたのではないか、と推察されるのであるが、それは渋谷簡易裁判所が改築のためその事務を取り扱うことができなくなったので、一時、東京簡易裁判所にその事務の移転が行なわれていたところ、その後改築が完成し、またその事務が渋谷簡易裁判所に戻った結果、このような開廷場所の変更が生じたものと考えられる。しかしながら、公判手続の更新を必要とする刑事訴訟法の立法趣旨から考えると、同一裁判官が引続き審理を担当する場合には、たとえ右のような開廷場所の変更が生じたとしても、もとより更新手続などを行なうべきすじ合いのものでないことはいうまでもない。したがって、担当の裁判官になんの変更もないのにその変更があったものとして公判手続を更新した原審裁判所の措置は、単に不要の手続をしたというに止まらず、訴訟手続の法令に違反した違法のそしりを免れない。ただ、しかし、この違法は、いまだ判決の結果に影響を及ぼすことが明らかであるとまでは認められないから、原判決破棄の理由にはしない。

しかしながら、本件控訴は、前記第一の控訴理由についてその理由があるから、刑事訴訟法三九七条一項三八二条によりこれを破棄し、同法四〇〇条但書にのっとり当裁判所においてさらに次のとおり判決する。

本件公訴事実は、「被告人は、自動車運送事業者小田急バス株式会社の従業員として一般乗用旅客自動車により運送業務に従事している者であるが、右会社の業務に関し法定の除外事由がないのに昭和四五年五月一日午前一一時三〇分ころ、世田谷区大蔵前町一二二番地付近道路において紀平悌子からの運送の申込に対しその引受を拒絶したものである。」というのであるが、さきにくわしく述べた理由により、結局、被告人についてその犯意の証明がいまだ十分でなく、犯罪の証明がないことに帰するので、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長判事 樋口勝 判事 目黒太郎 伊東正七郎)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例